閑話休題

雑多な所感を書いてみようかと。。。仕事のし過ぎでネタがないんだなぁ。
言えば分かる、分からないことは調べる or 聞く、というのは当たり前の行為では無いんだな、と思うことがあり。メールに書いてあった事を読まずに、聞いてない!風に言われてもね。
本社の人を交えたチームメンバーとの情報共有を確実にするには、極度のメール依存になる。隣の席の人との議論もメールにして、情報共有せざるを得ないこともある。コミュニケーションって、書いてある事が分かる、伝わるっていう前提があって始めて成立するんだな。当たり前だけどね。しっかしこの当たり前がそう簡単に成立しないのが現実なわけで。。。まぁ理解力、想像力の違いはあるからね。
似たような理解力と想像力を持つ人間が集まったとしても、次は各人のメンタリティーの差が新たな位相のズレを生むから、まぁややこしい。。。ポジティブか、ネガティヴか、その割合の違いは、矛盾と不確実性への許容度とかね。+責任感っていうスパイスが止めを刺すね。そう考えると最終的なキーは責任感だなと。最近思うわけです。
要するに、責任感、使命感があると、理解力の差とか、矛盾とか、位相のズレとか、リスク管理とか、分からないこととか、受け止めて咀嚼するんだよね。自ずから。例えばの話し、尖閣諸島の領有権を曖昧に処理しようとするのが、安定、平和、安全への責任感の表れだよね。曖昧さ、矛盾を受け入れるのが責任だったりするわけで。と同時に、リスクを見逃さない、甘く考えない、曖昧さを許さない責任感って意外と一般的じゃないんだなぁ。
愕然とするんだ。
で、よく分からないのが、責任感のソース、原点って何だっていう事。最近、この違いが何から生まれるのかが不思議でねぇ。最終的には、責任感で決まるよね。人生の満足度。目的を達成する為には、本来、好き嫌いとか、嫌われたらどうしようとか、リスク管理の曖昧さとかあり得ないよねぇ。それが責任感であって、危機感とでも言えばいいのか。目的を達成したいという熱意の差なのでしょうか。いや、もっと根源的な違いが、責任感の強弱、有無を規定し得るのかなって思うのですが、その答えはまだしばらくの間、見つからないでしょう。